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                         世界史を動かした知財法

第3回 英国専売条例 (その1:専売条例の誕生)

            ベネチア特許法の制定から約150年を経過した1623年、ジェームス1世の支配する英国に専売条例(Statute of Monopoly)が誕生した。フランス、ドイツ、米国、さらに日本まで、世界の近代的特許法の原点とされる法制である。

            だが、その制定にいたる過程は少々複雑である。歴史的背景を振り返ってみよう。

            特定の生活必需品(塩、酢、絹、油脂、石炭、硫酸、鉄鋼、織物、パン等)に関し、独占権を付与する特許状(Open Letter)の認可は、王の特権として中世ヨーロッパの歴史において珍しいことではない。だが、エリザベス女王1世が君臨した16世紀後半(1558-1603年)、この特権の乱用は社会的混乱を招き、市民の間から異議の声が高まった。特に、公知の商品に関し、発明と無関係の貴族や大商人が特権による高利益をむさぼる体制は、王室に対する鋭い批判を招いた。

            このため特権の無効を求める提訴が続いた。代表的な例として知られるDarcy v Allien事件(1602年)においては、トランプ・カードの製造販売に関する特権が争われた。英国裁判所は、トランプ・カードがすでに公知公用であることを認定し、特権の無効を宣言した。この事件は、新規性が特権の条件であることを明確にした点で世界史に残る判例として知られる。

            エリザベス女王の後を継承したスコットランド王家出身のジェームス1世に対し、英国議会は特権の制限を求めて対立した。論争のポイントは二つある。第一に、特権の根源である。王の恩恵なのか、あるいは人民の自然の権利なのか?第二に、特権の対象を新規の発明を生み出した発明者に限定すべきかいなか?英国市民の間の民権意識が高揚する中、王と議会の間の対立は長期化した。結局、武力に劣る議会は名を捨て、実をとる妥協の道を選んだ。

            特権の根源としての王の権威を認めつつ、特権の対象は新規な発明を生み出した真正かつ最初の発明者に限定する方式である。さらに特権の目的が独占期間満了後の公開による公益にあることも明記された。公益を前提に、新規性と発明者が特権の条件として明確にされたことによって、英国専売条例は近代的な特許制度の原点とされることになる。

            独占期間に関しては、14年以下と定められた。理由は次のとおりである。当時の新規の発明の大半は、職人的な加工技術を前提とする。職人としての新たな技術を身につけるためには、徒弟奉公を経て技術を研修するのが通常であった。このため平均的な徒弟期間として7年、さらに技術研修に7年、計14年間にわたり、発明者は特許技術を第三者に伝授することが義務とされた。

            上記のごとく、英国に近代的な特許制度が誕生した背後は少々複雑である。だが当時の英国の置かれた政治・経済・技術に関する状況を切り離して観察すると、この時代に英国に専売条例が誕生し根付いた社会的必然性が明らかになるように思われる。ポイントを整理してみよう。

            第一に、政治的状況である。13世紀に始まる英国議会は国王との対立に苦しみつつも、民権主義の基礎を構築しつつあった。ところが前述のごとくエリザベス女王の統治下、一部の貴族、大商人に対する専売特権の乱用を機に政治的対立は次第にエスカレートしていった。特に1603年以降、王権神授説を信奉するジェームス1世との確執は深刻になる一方であった。

            議会の抵抗は深く静かに潜行した。じっと耐えながらも議会は議員の数を次第に増やし続けた。事実、エリザベス女王の時代、59名であった議員数は、ジェームス1世の時代104名まで増員したとの記録が残されている。特に地方豪族の発言権が増した議会との対立の激化は、国王にとっても反乱の危険を秘めていた。こんな緊張感の下、諸貴族の支持を確保するため、国王は財力の増強を決意した。そのためには増税(特に関税収入)を避けられない。

            ところが手続き上、増税のためには議会の同意が望ましい。議会の求める専売条例発令への署名は、ジェームス1世にとっても妥協の産物であった。専売条例が発令された直後の1625年、ジェームス1世は病死し、変わって息子のチャールス1世が即位する。だが、指導力に欠けるチャールス1世による統治は次第に混乱に陥り、ついに市民戦争に突入した。1649年、オリバー・クロムウエル率いる議会軍は国王軍を制圧、チャールス1世は断頭台の露と消え、英国王家はここに中断する。

            一方、専売条例は当初市民の間の認識も低く、社会的な貢献は限られたものであった。事実、1750年までの間に登録された特許はわずか800件にすぎない。ところが1780年以降、織物機のアークライト、蒸気機関のジェームス・ワット、機関車のスティーヴンソン、電磁コイルのマイケル・ファラデイ・・・歴史的な大発明が続々と誕生し、英国は産業革命の巨大な渦に巻き込まれて行くのである。

            なぜ英国に突然優れた発明が生まれ始めたのであろうか?専売条例の存在は無視できまい。だが当初の150年近くの間、専売条例は埋もれた存在であった。18世紀後半、一体何が起きたのだろうか。

            その鍵を握るのは、ジョン・ロック(John・Locke)である。市民戦争をきっかけに、クロムウェルを護民官(The Great Protector)とするコモンウエルスは共和制の形を取りながらも、その実態は独裁政権に他ならない。民権主義を唱える部下は弾圧され葬られた。民権主義が政治思想として英国の地に根を下ろし始めたのは、希代の思想家ジョン・ロックによる明解かつ単純な論理の展開がきっかけであった。

            次号においてジョン・ロックと知的財産権との関係の詳細を論ずる。

ILS・月刊ローヤーズ(8-04)

 

 

   

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