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1 背景
2002年度における企業別の特許権取得件数が発表されたことは前回紹介した。その中で、特に注目を集めるのは、マイクロ・ソフト社の積極的な知財戦略である。この年、同社の特許取得件数は何と499件に達した。この実績は、全世界の企業中、34位に相当する。
1970年代からソフトウエアの開発を主たる業務としたマイクロ・ソフト社にとって、知財活動の中心は著作権であった。だから特許権の取得には、やや消極的であった。事実特許権の取得件数は、1990年代にいたるまで、年間50件を超えたことはない。
だが1980年代後半から、世界の知財戦略は、特許を中心に展開し始めた。ターニング・ポイントとなったのは、1981年ディーア事件における連邦最高裁判決である。最高裁は、コンピュータを用いたゴムのキュアリング方法に関し、ソフトウエアの特許性を認める画期的な判決を下した。さらに、1982年には、特許を専門とする高裁(CAFC)の設立によって、米国のプロパテント政策は、企業の特許活動を強烈に刺激した。
この動きは経済を力強く先導し、1990年代には、米国経済は完全に復活した。中心となったのは、コンピュータ、通信、そしてバイオ産業である。1998年には、ステート・ストリート銀行事件を機にビジネス・モデルの特許性も認められ、米国経済は知財を軸として回転し始めた。
米国プロパテント政策を最も効果的に活用し、利潤を大幅に伸ばしたのは、コンピュータの巨人IBM社であろう。1935年から1984年の間、IBMのライセンス収入は、10億円を超えたことがない。1980年代後半、ライセンス交渉のエキスパートとして知られるマーシャル・フェルプス氏を起用したところからIBMの知財戦略は、大きく転換した。
2000年、そのライセンス収入は、1700億円(16億ドル)を超えた。そしてIBMの特許戦略をモデルとして追いかけ始めたのがマイクロ・ソフトである。
2 IBMとの確執
マイクロ・ソフトがIBM社の知財戦略の見事さに着眼した背後に、実は一つ事件が存在する。IBMは、1980年代後半からソフト・ウエアに関する特許権の強化に力を入れ始めた。1990年代初頭には、同社のパテント・ポートフォリオは、量質ともに世界中の競業企業を圧倒した。
だがその時点では、マイクロ・ソフトは、特許権には少々無神経であった。マイクロ・ソフトの主要製品ウィンドウズ3.1が市場を制覇したとき、IBMは同社のパテント・ポートフォリオをマイクロ・ソフトにつきつけた。マイクロ・ソフトは全社を挙げて、特許権を回避すべく設計変更に乗り出した。だが数百件からなるIBMのポートフォリオは、強力な防御壁を構築しており、回避は不能であった。ウィンドウズ主力製品の差し止めは致命的である。マイクロ・ソフトには和解の道しか残されていなかった。IBMから要求された条件は二つある。第一に、3千万ドルの和解金の支払い、そして第二に、ウィンドウズのソースコードの提出である。
第一の条件はマイクロ・ソフトにとって問題とはならないが、第二の条件は難問である。マイクロ・ソフトにとって最も重要な企業資産であるソースコードが漏洩の危険にさらされる。だが選択の余地は見出せない。天才的企業家ビル・ゲイツ氏にとって屈辱の選択であった。
3 新たな戦略
世界のソフト業界の頂点に立つマイクロ・ソフトだが、その収益構造は少々いびつである。製品の範囲は広いが、主たる収益源はオフィスとウインドウズに限られる。
IBMとの激烈な特許係争は、マイクロ・ソフトにとって貴重な経験となった。安定した収益源を確保するためには、新たな知財戦略を欠かせない。IBMとの係争を屈辱的な和解で終結した直後、ビル・ゲイツ氏は幹部社員全員に対し、Eメールで指示を送った。
「ビジネスを始める前に、取れる特許はすべてとれ」
この方向転換は、短期間に成果を上げ始めたように思われる。2002年における特許取得件数499件は、一つの表象である。リナックスを初めとする無料ソフトの進出を警戒するマイクロ・ソフトにとって、これらの特許は最も有効な武器になるであろう。
ビル・ゲイツは考えた。
荒っぽい特許権の行使は、司法省あるいは各州政府による独禁法発動のリスクが伴う。最も安全かつ長期的な権利の活用法は、ライセンス契約を効果的に進める戦略にあるだろう。だが、ライセンス交渉を巧みに進めるためには、高度の知識と経験を要する。マイクロ・ソフトには残念ながら、ライセンス交渉に関する第一級のエキスパートは見当たらない。それならば、世界で最も実績のある男マーシャル・フェルプスをIBMからヘッド・ハントすればよい。
ビル・ゲイツの行動は速い。マーシャル・フェルプスは、今マイクロ・ソフトのライセンス戦略室のリーダーとして動き始めた。マイクロ・ソフトのライセンス戦略は、明らかに変わり始める。基本的に、かつてのIBMの戦略を踏襲することは間違いあるまい。だが、マイクロ・ソフトには特有の事情がある。無料のソフトが浸透したコンピュータ業界において、マイクロ・ソフトへのライセンス料支払いは、業界のみならず顧客の間に反マイクロ・ソフトの風を吹き起こしかねない。
だから当初は、きわめて低率の実施料を設定し、業界の常識を変える方針をとるであろう。その一例を紹介する。
FATと呼ばれるファイルシステムに関し、マイクロ・ソフトを強力なパテント・ポートフォリオを構築した。デジタル・カメラには不可欠な小型記憶装置である。マイクロ・ソフト社の求める実施料は、一台当たり25セントと極めて低額である。さらに合計の支払いは最大25万ドルに限られる。業界からの反発を最小限に抑えるためであろう。
FATに関しては、収益は限られるであろう。だがマーシャル・フェルプスは有能な男である。将来的にマイクロ・ソフトのライセンス活動が業界に受け入れられたとき、マイクロ・ソフトの求める長期的な知財収益は、巨額なものになるであろう。
4 まとめ
米国のプロパテント政策が成熟し始めた1990年代、知財戦略は、大きく転換し始めた。その中核となったのは、IBMである。IBMに代表される知財の効果的な活用戦略は、急速に広がり始めた。その一例がマイクロ・ソフトである。
マイクロ・ソフトの知財活動は、当初は目立たないであろう。だが、その動きが浸透したとき、彼らの知財戦略は、徐々に積極的に展開されることになるであろう。
近い将来、マイクロ・ソフトの知財戦略の転換が脚光を浴びるものと予測される。
完
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