米国知財事情

 お問合せ

ある発明家の生き方

第1話 成長は好奇心から始まる

弁護士 ヘンリー幸田

(1)    1足す1は、本当に2だろうか?

1847年2月11日の寒い朝、オハイオ州のミランと呼ばれる小さな町にある小さな家に頭の大きな男の子が生まれた。アルと呼ばれた男の子は、少々いたずら好きであることを除けば、当たり前の家庭で当たり前に成長して行った。

ミランはエリー湖に近い小さな田舎町である。もっとも南北戦争以前のアメリカは、国全体が大きな田舎だったから、当時のアメリカ人は田舎育ちが当たり前であった。

アルが小学校に入る直前のこと、彼はしょう紅熱にかかり、入学が少々遅れ、満8才で入学した。だが、こんなことは当時の未成熟な学校制度では珍しいことではない。アルの学校では、先生はたった二人。エンゲル牧師と奥さんである。

いたずら少年アルは、真面目なエンゲル牧師と初めから相性が悪かった。好奇心から遠慮なく質問を繰り返すアルバは、エンゲル牧師にとって授業の邪魔者であった。こんなことがあった。

「1足す1は、2だよ。みんな分かったね」エンゲル牧師は、自信に溢れた顔で生徒達を眺め回した。

「イエス・サー」生徒達は、かわいい声で答える。ところが、

「何故ですか」と馬鹿な質問をする少年が一人いる。アルである。

「何故って、1足す1は、2に決まってるじゃないか。鉛筆1本と鉛筆1本を並べてごらん。2本あるだろ」

エンゲル牧師は、うんざりした顔で、それでも我慢しながら説明する。ところが、アルは納得しない。 

「でも、ここにコップが一つあって、もう一つコップがあって、その中の水をもう一つ別のコップに一緒に入れたら、一つになるじゃないですか。1足す1は、1かもしれない」

「うるさい、ばか者。昔から、1足す1は、2に決まってるんだ」

好奇心の強いアルは、不思議で仕方がない。

「でも、1枚のお皿を落っことしたら、100個位のかけらになってしまった。そのかけらを100個、糊でくっつけたら、1足す1足す・・・100回足しても、1枚のお皿になるじゃないの。何故、1足す1は、2なんですか」

「お前みたいな馬鹿者は見たことがない。お前の頭は空っぽか」

人は好いが気の短いエンゲル牧師はついに爆発した。分からないことを聞いただけなのに怒鳴られたアルの心は傷ついて、泣きながら家に帰った。こんな毎日が続いた結果、アルはわずか3ケ月にして学校からはみ出した。登校拒否である。

学校が嫌いなアルに対し、元教師の母親は自らアルの勉強の相手になった。母親も好奇心が強い。二人は百科事典を片手に質問をぶつけ合った。なかなか答えが見つからないこともあるが、好奇心の強い二人で考え、議論を交わすことは楽しかった。

母親との対話を通じてアルの好奇心は磨きがかかり、自分の頭で考える習慣が身についた。

(2)チャンスを逃すな

12才になったアルは、鉄道でアルバイトを見つけた。りんごやピーナッツ、そして新聞を車内で売る仕事である。アルは仕事を楽しんだ。楽しいからあれこれ新商品を仕入れ、売上を増やしていった。

15才に成長したアルは、両親を助けるために、もっと利益を上げる方法を考え始めた。彼は名案に気がついた。投資である。チャンスは目の前にあった。南北戦争が激化し、地元の若い兵士達が大きな戦闘に巻き込まれた。ラジオやテレビ、電話もない時代、このニュースを伝える唯一の手段は新聞であった。

アルはデトロイトの新聞社から1000部を仕入れる交渉にかかった。一部3セント、全部で30ドルになる。もちろん、そんな大金はない。15才の少年が、新聞社に対し借金を申し入れた。信用取引き(クレジット)である。新聞社の営業部員は驚いた。だがアルのプレゼンテーションは、なかなか見事であった。

デトロイト発ポート・ヒューロン行きの汽車では、通常新聞は30部しか売れない。だがこの日は、1000部を汽車に積み込む。そして各駅に対し、電報を送り、戦闘・戦死者情報を満載した新聞が到着することを事前に地元に通知する。息子達や友人達の生死を心配する人達の間で、新聞は飛ぶように売れるはずだ。

アルにとっては大きな賭けであった。新聞社にとっても同じである。心配は不要であった。各駅は、新聞を待つ人達でいっぱいであった。アルの企画は大当たりであった。駅ごとに値段はどんどん高騰し、定価5セントの新聞が25セントであっと言う間に売りきれた。15才のアルは、この日、何と100ドルを超える大金(現在の約1万ドル)を手に入れた。

この成功で味をしめたアルは、儲けた金を元手に新聞の発行を企画した。ローカル・ニュースを載せた新聞を発行すれば、退屈した乗客が喜んで買ってくれるに違いない。アルは、何と15才にして新聞発行人となった。

アルが自分で記事を書き、自分で印刷したウィークリー・ヘラルド紙は順調に発行部数を伸ばした。大人顔負けの収入である。ところがある企業を批判した記事をきっかけに、アルは手荒い仕返しを受け、新聞はあっさり廃刊に追い込まれた。新聞ビジネスの成功と失敗は、強烈な教訓となって彼の心に刻み込まれた。

このときアルは、チャンスは逃してはならない、だが他人の批判は無用であることを身をもって体験した。

 (3)変化に対応できる生物が生き残る

電気を利用した電報という新しい通信手段は、それまでの新聞や手紙による通信手段とは明らかに異なる。電報のお陰で新聞販売での大成功を体験したアルは、その効果に驚かされた。彼は電報技術の習得に熱中した。

現在の少年・少女達がコンピュータ・ゲームに夢中になるのと大差あるまい。だが電報を中心に、将来のビジネス・モデルを考え始めていたところは、普通の子供達と少々異なる。

電報の技術を身につけたアルは、次世代の通信手段の開発を夢に見た。電報に変る新しい通信手段を開発できれば、大きなビジネス・システムが可能となる。だが、その夢は1876年、アレクサンダー・グラハム・ベルの電話によって先を越された。ベルに先を越されたことによって、アルの好奇心は逆に火がついた。

電報・電話をきっかけに、音の世界に魅了されたアルは、1877年、蓄音機の発明に成功する。音の次は光である。ローソクとランプの乏しい光に頼る生活は何とも不便である。もっと明るい照明器具は、出来ないものか。1879年、アルは、1万回を超える失敗を重ねた末、京都岩清水八幡宮から入手した竹の繊維を用いることによって、ついに白熱電球の発明に成功する。そして、音と光を結びつけることにより出来あがったのが映写機である。1889年のことであった。

アルの好奇心には終わりがない。電池、録音機、扇風機、謄写版、トースタ、ミシン、ラジオ・・・彼はその後も次々に素晴らしい発明を生み出した。1931年、84才の生涯を終えるまで成長し続けたアルバは何と、1093件の特許を生み出した。そのエネルギーは驚異的である。

彼の持つ無限の好奇心とエネルギーはどこから生まれたのだろうか。

アルが少年時代の1857年、生物学者チャールス・ダーウィンは、種の起源を発表した。ダーウィンは説いた。

「この世で最も長く生き残る生物は何だろうか。最も頭の良い生き物か、あるいは最も強い生き物か。いや違う。それは変化に最も対応できる生き物だ」

成長は変化の一つの態様である。少年時代に感銘を受けたダーウィンの哲学は、アルの一生を支える信念となった。だからアルは、新しい発明を生み出し続けた。

少年アルは成長した後、トーマス・アルバ・エジソンと呼ばれるようになった。

 

webtop_logo.gif (1195 バイト)へ戻る

米国知財事情へ戻る